子育て、大変だけど楽しい。辛いときもあるけど嬉しいことがいっぱい。
お父さんも手伝ってくれるけど、もうちょっと一緒のいてくれる時があったらもっと嬉しいけど・・・
 古里保育園では子育て奮闘中の皆様と同じ視線で考え、共に成長していきたいと、親として、
保育士として、栄養士としてそれぞれの立場から子育てに関する情報を発信してまいります。

はじめの一歩12月号(通算第69号 )

『恩師への感謝』

岡部弘美

 今回は高校時代の話です。私はバレーボール部でした。顧問の先生はとても厳しい人で、練習中に気に入らないことがあると「オレは帰る!」とだけ言い残し体育館を出て行ってしまいます。キャプテンだった私はマネージャーと一緒に何度、体育教官室に行き、ひたすら「お願いします」と言ったことでしょう。現役時代はプライベートのことなど一切わからず、先生の年齢すら知りませんでした。卒業してからはOGとして、何回か合宿に顔を出したものの成人してからは殆ど繋がりもなくなってしまいました。
 今年のはじめ「先生の具合が悪く入院されている」という知らせが入りました。もう、10年以上もお会いしていませんでしたが「行っておかなくては・・・。」という想いが走り、面会に行きました。痩せて起き上がれない程の病状の先生は、私が名乗ると「喋れないから帰りなさい。」と一言。握手だけして病室を後にしました。
 先生が亡くなったという知らせは、それから2ヶ月後のことでした。9月には一つ上の先輩の企画で「偲ぶ会」が開かれました。1期生から15期生まで、各学年の代表が一言ずつ思い出話をする場面がありました。どの代からも体育館を出て行ってしまった話は出ていました。その真意は「オレがいないところで、自分たちで考えろ!」ということではなかったか・・・という結論になりました。当時は気が付きませんでしたが「自分達で・・・」という場を与えてくださっていたのだと…。
私も話をしました。
 私には凄いスランプの時期がありました。まだ、先輩の中に入ってプレーしていた時のことです。他のプレーは普段と変わらずできるのに、何故かサーブだけが入らない。自分だけで打てるサーブが入らない。「試合でサーブの順番が回って来る度に、ベンチを見て「メンバーチェンジをしてほしい」と先生を見たのですが、決して受け入れてくれませんでした。どうして代えてくれないんだろう・・・という想いを抱いたまま、ひたすら打っては失敗しての繰り返し。そんな私でしたが、スランプを抜け出すことができたんです。キッカケが何だったかは覚えていません。1本入れば次も入る。そしてサービスエースもとれる。先生はきっと「自分の力で乗り越えなさい」と言いたかったのでしょう。今、そのことがわかります。私のことを信じて見守ってくれた先生自身もスランプの私と同様に辛かったのではないかと・・・。
 私は自分の息子たちに、保育園の子どもたちに対して「見守ること」「信じて待っていること」ができているでしょうか。そして、必要とされる時に、手を差しのべることができているでしょうか。先生が亡くなった今、当時を振り返り、改めて感謝しています。